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『左経記』解説

源経頼(みなもとのつねより)

 『左経記』は源経頼(985~1039)の日記である。経頼は宇田源氏、祖父は左大臣源雅信、父は参議左大弁扶義であり、外舅(妻の父)の一人に藤原行成がいる。長徳四年(9998)に十四歳で叙爵(従五位下)、寛弘二年(1005)に玄蕃頭となり、次侍従・少納言、和泉守などの国守、蔵人・蔵人頭、内蔵頭、中宮亮などを経て長元三年(1030)に参議となった。特筆すべき経歴は、長和三年(1014)に左少弁となってから長暦三年(1039)に左大弁で没するまで二十五年も弁官職を勤め、太政官政治の実務に携わったことである。それ故に、経頼の極官は参議であるが、左大弁であったことを特記して、左大弁源経頼の日記、すなわち『左経記』と呼ばれるようになった。
 現存する『左経記』は長和五年正月から長元八年六月まで(後人が凶事に関わる事項を部類した『類聚雑例抄』を合わせると長元九年まで)であるが、『御産部類記[おさんぶるいき]』『台記[たいき]』『魚魯愚別録[ぎよろぐべつろく]』『官奏抄[かんそうしよう]』『列見并考定部類記[れけんならびにこうじようぶるいき]』などに引かれる逸文から、起筆は経頼が二十五歳で次 侍従に補された寛弘六年(1009)以前で、五十五歳で病没するまで記されていたことが知られる。また実務官僚の立場から儀式次第を把握するため、『西宮記[さいきゆうき]』勘物(青縹書)を作成し、文書の書式や発行手続きについての先例を知るために『類聚符宣抄[るいじゆうふせんしよう]』(国史大系)を編纂したと推定されている。『左経記』の記載は、先の『小右記』の記載段階ではほぼ第二段階から第四段階に相当し、『小右記』の記事の欠落を補うだけでなく、重複する事柄についても実務官僚という異なる視点から書かれており、両方を併読することで、より客観的な歴史像を描くことができるようになる。

『左経記』の写本と治安二年(1022)条

 『左経記』の写本は、江戸時代のものがほとんどであるが、治安二年(1022)条には、鎌倉時代の写本と考えられる九条家本(宮内庁書陵部 蔵)がある。これに基づく校本は、現在活用されている『増補 史料大成』本で読解できなかった問題を解消させてくれる。本年条の九条家本による活字化は、『大日本史料』第二編之十八でなされているが、項目別に載録するという体裁をとっているため、一日条が複数の項目に分割されるなど、『左経記』を読むには 非常に不便な構成となっている。そこで本稿では、九条家本により作成した校本に基づく形で、書下し文を作成し、掲載する。書下し文の作成方法は、『小右記 註釈 長元四年』と同じで、これによりある程度正確に本文(校本)を復元できるようになっている。校本、『小右記』などとの比較、註釈は、他日を期したい。
 治安二年に経頼は三十八歳。弁官職に就いて九年目を迎えて権左中弁・内蔵頭となっており、正月には石清水行幸の行事を勤めた賞として正四位下 に叙された。『左経記』治安二年条は、七月から十二月まで遺されているが、他の年の記事と同じく、略本である。そこには、寛仁三年(1019)に出家した 藤原道長が建立した無量寿院(九体阿弥陀堂)を、金堂などが造立されたことで「法成寺」と改称し(七月十一日条)、その造立供養に外孫の後一条天皇(敦成)と東宮(敦良)を迎えるという大行事が描かれている。これまでの道長研究で軽視されがちであった、道長出家後の栄花を知ることができる重要史料である。時に右大臣となり政務の中核にいた藤原実資の『小右記』ほど詳細ではないが、実務官僚として準備に携わるなど経頼自身が重要な働きをしたことが記されており、同時代の実態解明には欠かせない。また、後一条天皇の平野社・大原野社行幸、太皇太后藤原彰子の仁和寺観音院造立(十月条)、関白藤原頼通の養子藤原信長の元服(十二月条)など、重要な記事が続く。是非、賞翫していただきたい。
(三橋正)

『左経記』治安二年(1022)条書下し文

 明星大学『研究紀要18(言語文化学科)』に掲載されたものです。
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