Shoyuki-Kodokukai
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『小右記』解説

 『小右記[しようゆうき]』は、藤原実資(957~1046)が五十年以上にわたり漢文(日本風の変体漢文)で付けた日記で、摂関期における最大かつ最重要な記録(日記)である。

藤原実資[ふじわらのさねすけ]の生涯

 藤原実資は天徳元年(957)に参議斉敏の四男として生まれた。母は播磨守藤原尹文の娘である。祖父実頼の養子となり小野宮邸を伝領したので 「後小野宮」といわれ、右大臣を極官としたので「小野宮右大臣」といわれる。安和二年(969)に十三歳で元服と同時に叙爵(従五位下)し、その四ヶ月後 に侍従となった。以後、昇進を重ね、天元四年(981)に二十五歳で円融天皇の蔵人頭となった。この時、叔父頼忠(実頼の二男、保忠の養子)が関白・太政 大臣となっており、翌年にその娘遵子が皇后となると実資は中宮亮も兼任して政権を支えた。さらに花山天皇・一条天皇の蔵人頭ともなった。三代の天皇の蔵人頭を勤めたことは、実資の有能さを示している。しかし、関白頼忠の時代は蔵人頭のままで、摂政兼家の時代には道長を含む九条流の子息たちに先を越され、参議になったのは永祚元年(989)、三十三歳の時であった。政務・儀式に精通した実資は、長徳元年(995)に内覧宣旨を受けた道長の政権構想に必要とされたようで、その三ヶ月後に権中納言となった。そして、翌年正月に起こった伊周・隆家兄弟による花山法皇襲撃事件(長徳の変)で、実資は右衛門督・検非違 使別当として処理に当たり、まだ安定感を持っていなかった道長政権を助けた。この直後、実資は中納言になり、督・別当の両職は辞したが、長保元年(999)に正三位、同二年に従二位となり、同三年には権大納言で右大将を兼ねた。右大将の職は、実資八十七歳の長久四年(1043)まで、四十三年間も勤める ことになる。
 既に正暦二年(991)に藤原佐理が参議を辞してから、実資は小野宮一門の筆頭公卿であり、九条流が全盛を迎えた時代においても、道長一家に 対して毅然とした態度で臨めた。長徳二年の花山法皇襲撃事件に際しては縁坐を行なうべきでないと進言し(五月四日条)、長保元年(999)に道長が彰子入内のための屏風和歌の詠進を諸卿に求めた時、それにただ一人応じなかった(十月廿八日条)。また、三条天皇即位の翌年の長和元年(1012)、故藤原済時の娘娍子が三条天皇の皇后として立后の時、諸卿が道長の娘中宮妍子をはばかる中で、「天に二日無く、地に二主無し」という道理から、藤原隆家らと共に参内して儀式を行なった(四月廿七日条)。さらに、後一条天皇の寛仁三年(1019)に起こった刀伊の入冦の際には、恩賞を賜与するという官符発令の先後に関係なく、これを撃退した者に賞を行なうべきだと強硬に主張し、それを行なわせた(六月廿九日条)。
 けれども、道長と対立することはなく、貴族社会特有の自己保全と調和の原理によって行動しており、長和五年(1016)に後一条天皇が即位し て外祖父である道長の権威が揺るぎないものとなると、実資もそれを受け入れて、より積極的に道長に接近した。道長もまた、実資を儀式の執行者として、次の世代(頼通)の体制を補佐する重鎮として必要としたのである。治安元年(1021)七月に顕光が左大臣を辞し、関白左大臣頼通、太政大臣公季、右大臣実資、内大臣教通という新体制が出来上がると、節会の内弁・重要な儀式の上卿のほとんどは実資が担当した。それが自他共に「完璧」と認めるものであったことは、治安元年十一月に御前の官奏の上卿を勤めた際、「過失」の無かったその儀を群臣が参集して競い見ただけでなく、道長の賞賛を得たことに象徴される。道長は寛仁三年(1019)三月廿一日に出家し、万寿四年(1027)十二月四日に六十二歳で入滅するが、それまでに頼通へ政権を委譲するにあたり、実資を 重用し、重責を担わせた。実資は廟堂の頂点に立つことはなかったが、頼通のもとで重要な朝儀を取り仕切る立場となり、「儀式の完璧なる執行者」としての名声を確立した。長元三年(1030)十一月以降は、高齢を理由に最重要の儀式以外で内弁を勤めることはなくなったが、「賢人右府」と賞された実資の学識は常に必要とされ、「儀式・政務の管理者(監督者)」としてますます重きをなした。
 実資は後冷泉天皇の永承元年(1046)に九十歳で薨じるが、その時まで(厳密には直前に「臨終出家」をしているので、その時まで)右大臣の 地位にあった。その二年前(長久四年)に右大将は辞したものの、最晩年まで朝廷(頼通政権)を支える重鎮であったことは、養子である資房の日記『春記』の記載からも明らかである。

貴族の日記(古記録)と名称

 平安貴族にとって、その日の出来事を記録して後代の参考に供することはとても重要で、最高身分の者までが具注暦[ぐちゆうれき]などに日記を付けるという古記録文化が定着した。記主[きしゅ](日記を付ける人)自身も、前代の日記を参照して政治・儀式を行なっていたから、当然、自らの日記も後代の人に読まれることを意識し、正確に記述するように心がけられていた。重要な日記は何世紀にもわたって書写され続けたので、たとえ自筆本がなくなっても、今日に伝えられているのである。その書写作業の中で日記に名称(書名)が与えられた。記主の姓名・称号・官職などから二字を組み合わせるのが普通だが、死後に作られるので諡号(おくりな)や極官(その人が着いた最高の官職)が用いられ、さらに工夫が加えられる場合もある。
 藤原実資は自らの日記を「暦」「暦記」などと書いているが、同時代には『右府御記』などと呼ばれていた。現在一般化している『小右記』は『小 野宮右大臣記』のことで、実資が祖父であり養父でもある藤原実頼(900~970)から受け継いだ邸宅「小野宮殿」と、実資の極官である「右大臣」から一字ずつを取って付けられた。「右」は漢音により「ユウ」と訓む。また、右大臣の唐名「右府[うふ]」とから二文字目を組み合わせて 『野府記[やふき]』ともいう。単に『小野宮記』『小記』などと記される場合もあるが、同じ小野宮殿である実頼と区別するために「後」や「続」を付けて『後小野宮右大臣記』『後小記』『続水心記』とこともある。(実頼の日記は諡号を用いて『清慎公記』というが、その「氵(さんずい)」と「忄(りっしんべん)」だけを採って『水心記』ともいう。)貴族の私的な日記とはいっても、政治の中枢に携わる「公」の立場と家の誇りをもって書かれ、受け継がれていたのであり、その記述の信憑性は非常に高い。
 『小右記』の現存する条文(すべて写本)は、天元五年(982)四月から長元五年(1032)十二月までである。他に『小記目録』という各記事の見出しを項目別に整理した類従の目録が二十巻あり、これにより貞元三年(天元元年)正月一日からの記事があったことが明らかとなる。また、『改元部類 〈応和-建久〉』(続群書類従)に「長暦四十一十小記云」という記載があることから、長久元年(1040)の記事があったことが知られる。ここから、実資は少なくとも二十二歳から八十四歳に至る六十三年間にわたって日記を書き続けたと推定されている。同時代にこれほど長く、しかも詳しく付けられた日記は他になく、摂関期における中央政界の動向や朝儀の実態、社会の諸事象を考察する最高の史料とされ、多くの研究者に活用されているのである。

『小右記』の記述

 『小右記』を読む上で、記主実資の身分や立場の違いから書振や内容が変化することにも留意しなければならない。現存する五十年間の条文にも欠失が多く、厳密な区分は難しいが、次の四期に分けるのが妥当だと考えられる。

第一期 円融天皇朝~一条天皇朝

 現存する条文の最初である天元五年は、実資が円融天皇の蔵人頭[くろうどのとう]であった時期で、その精勤さにより官僚としての典型的な日記を付けていた。記載も数行(五十字から二百字程度)が普通で、重要な儀式などでも一千字を超えることはほとんどなく、必要事項を要領よくまとめている。身分が上がるにつれて記載が詳しくなる傾向が認められ、道長政権の誕生による変化も予想されるが、長保・寛弘年間の欠失が多く、詳細は不明である。ここでは基本的に一条天皇が崩御する寛弘八年(1011)まで書振は変わらなかったと考えておきたい。

第二期 三条天皇朝

 次の三条天皇の時代、実資は小野宮流の筆頭公卿であるだけでなく、大納言になっていた。そこで天皇と道長との不和の中間に身を置いていたことが、日記のあり方を変化させたと考えられる。重要な儀式を任されることもなく、実資としては実力を持て余していた時期であるが、その分、横柄に振舞う道長への批判や、無能な公卿に対する罵言が多くなり、明らかにそれ以前とは違った書き方となっている。まさに現実への鬱憤を日記にぶつけているという感があり、大変興味深く、『小右記』を語る際に必ず取り上げられる部分である。

第三期 後一条天皇朝前期

 後一条天皇が即位した長和五年(1016)以降は、儀式・先例に精通した長老として重きをなし、その自信に満ちあふれた記載が展開する。一日の記載が二千字を超えることも珍しくなく、まさに自分が正当な朝儀の執行者であり、それが後世の先例となるべきであるという意図で日記が書かれたといっても過言ではないであろう。実際に、現存する『小右記』の半分以上が寛仁年間(1017~1021)以降で、特に治安三年(1023)の任大臣に関する記事や、万寿年間(1024~1028)から長元二年(1029)までに大臣として内弁を奉仕した諸節会の記述は、平安時代に考えられた理想的な儀式の姿を伝えているといえる(残念ながら長元三年条は略本しか伝わらない)。

第四期 後一条天皇朝後期

 長元四年条は『小右記』の本文が広本の形で伝わる最後の年のものである。宮内庁書陵部にある旧伏見宮本が唯一の古写本で、春(正月・二月・三月)と秋(七月・八月・九月)とがそれぞれ二巻ずつ(計四巻)あり、少なくとも三人以上が分担して鎌倉時代に書写したと考えられる。写本の伝わらない夏 (四月・五月・六月)と冬(十月・閏十月・十一月・十二月)についても『小記目録』に事項があることから記事があったことは確実で、十月の興福寺塔供養と 十一月の朔旦冬至に関する記事の逸文[いつぶん]が遺されている。
 長元四年条の価値は、広本の最終年であるということに留まらない。前代と同様に重要な朝儀の上卿を勤めていることに変わりはないが、前年(長元三年)十一月に実資は「免列宣旨(腋より参上の宣旨)」を受けており、節会(元日節会・白馬節会)では「儀式・政務の管理者(監視者)」として不慣れな内大臣教通の儀式を見守っている。その記述は単に儀式の進行を書くのではなく、それを了解した上で従来にはない視点から注意点を特記するのであり、明らかに以前と異なる筆致となっている。もちろん、読み手は以前の記録や儀式書と照らし合わせなければ理解できず、結果として極めて難解になっている。
(三橋正)
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